大田山
光眞寺は山号を大田山と称し、大田原家の菩提寺として創建された曹洞宗の禅刹です。
大田原家中興の祖である十三代資清公は、城を中田原水口から大田原龍体山へ移すとともに、両親の菩提を弔うため寺堂の建立を企画しました。
四方に霊山霊域を探させたところ、西方に巨木が鬱蒼と茂り、風のない時にも枝が鳴り、水深く湛えた蛟龍の潜む深淵を思わせる幽池の地を見出し、直ちに七堂伽藍を建立しました。
そして、俗兄であり高徳の誉れ高かった塩谷川崎の長興寺三世麟道和尚を招請し、開山第一世と定めました。
寺領三百石(後に五百石)を賜り、大田原家永世の菩提寺として定められました。
寺号は、父君の法号「明庵道光」の「光」の字と、母君の法号「真芳妙観」の「真」の字を合わせ、「光眞寺」と命名されたと伝えられています。
時に天文十四(一五四五)年四月のことであり、以来四百六十余年にわたり、この地に法灯を伝え、歴史を刻み続けています。
当時開基大田原家第十三代備前守資清公は自らの廟を伽藍裏手の龍体山山腹光龍台に定め、爾来歴代城主並びにその妻子、第二十八代勝清公まで代々光龍台に葬られましたが、昭和に至り廟の風化損壊が著しく、昭和十五年に本堂西側の一段高き境内地に遷して現在に至っています。
廟は全て那須芦野石製の宝篋印塔型の大石塔で、大田原家の繁栄と豊かさを忍ばせ、市指定の重要文化財となっています。
天文十五年(一五四六年)の一夜、開基資清公は、仮睡に地蔵菩薩が二名の童子を伴い現われ「もし重き苦しみの者あれば、われ代りて苦しみを受けん」と唱えられたのを感得し、深く感銘して自ら下絵し領内の名工石上村の仙右衛門を召して、その工を命じた。
果して総丈七尺五寸三分の御像を彫みあげ、光眞寺東御廟内に祀られた。しかし後の大野火にて焼失し、昭和四年二月二十四日に新たに創作され、未来永劫の童子の浄福を祈念しております。
元和八(一六二二)年日光東照宮御造営時代、時の銘工左甚五郎ゆかりの作と伝えられ、永く日光の造り酒屋に祀られていたものをあまりに霊験あらたかなので昭和廿九年に当山に寄与されました。
この大黒天は甲子(きのえね)の歳に作られたので甲子大黒天といい、一度願をかけると十日目の日までに必ず功があると云われ「十日目限、必願成就」と称えられています。